Lesson 11 – Main Text

Hideyoshi and Rikyuu – 秀吉利休

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日本の歴史の中で、十五世紀から十六世紀までの百年間は戦国時代と呼ばれていて、日本全体を統一できるほど強い力を持った人がおらず、戦争の続いた時代だった。その意味では悪い時代だったが、しかし別の面から見ると、頭が良く、力がありさえすれば、誰でも高い地位に付けたのだから、自由な時代だったとも言える。

この戦国時代を終わらせて、日本を統一した人の一人として有名なのが、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)である。彼は始め最も低い身分さむらいであったが、自分の努力によって最後には国の統一者にまでなった人として日本では人気がある。しかし自分が高い地位に付いてしまうと、農民から刀などを取り上げて彼らの力を弱めた。こうして、さむらいと農民がはっきり区別されるようになったのである。

そして、秀吉の後(のち)の時代、つまり江戸時代になると、この区別はいっそうはっきりしたものになり、、農、工、商(さむらい、農民、職人商人)と言われる封建(ほうけん)的な身分制度すっかり出来上がってしまったので、戦国時代のような自由さはなくなってしまった。どんなに頭のいい農民でも、さむらいになることは出来なくなってしまった。

さて、秀吉について子供達でもよく知っている話しの中に次のようなものがある。まだ彼が身分の低いさむらいであった頃、ある冬の寒い日に、主人ぞうりをはいた時に冷たくないように、主人の出かける前にそのぞうりを自分の着物の中に入れて暖かくしておいた。それをはいた主人はとても喜び、またこの秀吉という人間に感心した、という話しである。そのような頭の良さと努力によって彼は高い地位にのぼっていったのである。

日本人の生活の中では、言われたことをやるだけではなく、言われなくても、いつも相手の気持ちを考えて、その人が何をしてほしいと思っているか、に気が付く必要がある。これは目上、目下の関係の中だけで大切なのではない。普通の人間関係においても、たとえ相手が何も言わなくても、その考えを分かってあげようとすることが大切である。

日本は島国で文化や習慣の違う外国人が少なくて、日本人なら誰でも大体(だいたい)同じような考え方をしている。だから、ああしてくれ、こうしてくれと一々言う必要はないのである。日本は「言わなくても分かる」文化で、それ以外の国々は「言わなければ分からない」文化だと言ってもいい。このことが「日本人は分かりにくい民族だ」と言われる原因の一つかもしれない。

秀吉は政治の世界の人間であった。これに対し千利休(せんの りきゅう)という人はまったく別の芸術の世界の人間であった。彼はもともとは大阪の近くの堺(さかい)という所の商人だったが、茶道完成させたことで歴史に名前が残っている。茶を飲む習慣は中国から入ってきたものであり、思想的には仏教の禅(ぜん)の影響(えいきょう)を受けて発達した。茶道がどんなものであるかを知るためには、実際にそれを経験してみるしかないが、簡単に言えば、ある決まったルールにしたがって茶室お茶を入れ、それを客に飲ませることである。

普通、茶室は四じょう半の広さで、また庭からの入り口は約六十センチメートルほどの高さしかない。もちろん人は立ったままでは入れないし、さむらいは刀を茶室の外に置(お)いて中に入ることになっていた。茶室の中ではさむらいとか商人とかの身分は忘れられなければならなかった。茶室は、ふだんの生活、ふだんの人間関係からはなれた特別な場所だというわけである。茶室と言えば、利休の作った「待庵(たいあん)」が有名である。これは最も狭い茶室であり、その広さはたたみ二じょうである。しかし実際の狭さにもかかわらず、この茶室に入った人は決(けっ)して狭いとは感じないそうである。

また茶を飲む前に出される料理は懐石(かいせき)と呼ばれる。もともとはこれも客のために主人が心をこめて作るものであった。現在では茶道とは別に懐石料理を専門に食べさせる店もある。そこへ行けば日本料理の伝統を見、味わうことが出来る。このように飲んだり食べたりすることを芸術にしてしまった国は、日本以外にはないだろう。

利休は秀吉にとっても、最初はお茶の先生に過ぎなかったが、だんだん二人の関係は深くなっていき、政治的なことについても相談されるほど秀吉に信用されるようになった。ところが最後には、利休は秀吉にせっぷく命じられ、死んでしまうのである。なぜ彼が死ななければならなかったかは、はっきりとは分からない。ただ次のような話しから、二人の関係を色々と想像することは出来る。

ある年のこと、利休は自分の庭にたくさんの朝顔植えた。しばらくすると、とても美しく花が咲いた当時、朝顔はまだ日本ではめずらしい花だったのだろう。秀吉がそれを人から聞いて自分にも見せてほしいと言ってきたので、ある日、それを見せることになった。おどろいたことに、その朝、利休は咲いていた朝顔の花を全部切ってしまった。そしてそのうちの一輪(りん)だけを茶室にかざっておいて、秀吉に見せたのである。

秀吉はもちろん庭に咲く、たくさんの朝顔を楽しみにしていたはずである。秀吉は黒という色の良さがどうしても分からず、いつも赤い茶わんを使いたがり、またすべて金(きん)で出来た茶室を作らせるような、はでなことが好きな人間であった。利休は庭の朝顔を切ってしまったら、秀吉が喜ぶだろうとは 必ずしも考えてはいなかっただろう。一般的に言って、花の命はできるだけ大切にしたい、というのが人間の気持ちである。だが芸術家としての利休は、たくさんの花をそのまま見せるよりは、美しさを一輪の花に集めて表現した方がよいと思ったのではないだろうか。茶室にかざられた、たった一輪の朝顔の中に、朝顔の美しさがもっと高いレベルで表現されると考えたに違いない。この話しは彼の芸術や思想を知るためのヒントにもなるし、二人の関係もよく表わしているように思われる。